使い方
この日記の使い方。ブクマついてるけどメモなので適宜書き直しますよー。
これは何か
「このゲームってこうなんじゃねぇの?」という、ゲーム会における無責任かつ一番おもしろい部分をキャプチャする必要があると感じたので、ID取って日記立ててみる。
基本的には会話の再構成。
で、その「こうなんじゃねぇの?」ログの中から「これはまぁ数人の合意としていいだろう」とか「この言い回しは面白いし使い勝手が高いだろ」と思ったものは、流れる日記とは別のストックテキストとして保管。あと記事の脚注もストックテキストからリンク。
現実的には日記を書いてwikiと連動させようよ、ということになる。はてなダイアリーだから、それは、やればできるわけですが、もうちょっとなんとかならないもんだろうか…(ってか、経験の集積という意味でキーワードを作るの、「はてなダイアリー」は失敗してるからなぁ…)。
blogの本文にwikiのテキストをインクルードできたら便利だよね。
私が考えるボドゲブログの失敗
- 「わたし」が「プレイした感想」が一般化されない
- おもしろさに関するその場の合意形成がいわばボドゲの醍醐味であるのに、だ
- これは「わたし」が「プレイログ」を<所有している>という形に問題があるのではないか? (つまり、個人ブログに遊んだ感想を書くという形式に限界があるのではないか)
- ある程度練られた感想や概念は公知の用語として取り入れられていくべきではないのか?
- それがないから、いつまでも「今年のSDJの動向が気になります」なのでは。
- ざっくり考えて、現状ボードゲーマーは概念を外から輸入しているような。「外」とはたとえば「作り手」「研究者」「ビデオゲーム」「シミュレーションゲーム」など。
ボドゲに向いた記述システム
- 仕組みがあんまりよくないのではないか
- 書きながらこれまで書いたリソースを参照しつつ、考えを固めていくのなら、wikiが一番適している筈
- 実際それで書いてる人もいるし(てらしまさんとか)
- でも、普通の書き物はざっと書いては流れていくという性質がある。性質というか「いきなり内容の固まった話をwikiに書くにはある程度の気合いが必要」。wikiで考えを書いては直し…というのをやってもいいけど、それだと日記が常にドラフトみたいになる。
- 私が知らないだけかも知れないけど、適切にblog/wikiがマージされた仕組みがない。昔使ってたPukiwikiなんかは「日付名」ノードで一定の並べ替えをしてくれるけど、ああいうのをもちょっとスマートにやれんもんか。
ちょっと書き出してみた感想
- しゃべりをそのまま書くのは無理。意味が通らないし読んで面白くない
- ある程度空気感を面白げな方向に解釈して、発言をわかるように直して、発言者のバランスが取れるように補足すれば(実際の会話ではもっと中途半端な発言が多い)、けっこう面白くなる部分もある
- まぁ『ブラスト公論』の真似ですけど…
- 再構成するとき、編集している自分のキャラが使いやすいので、どうしても自分が面白いことを言っているような感じになりがち
ダイアログ部分をもし面白く感じるのだったら、それは「書き方」の問題であって、少し気心の知れた間柄ならこれくらいの会話は普通に飛び交ってると思う。プレイログやレビューという形式以外に、いくらでもやりかたも仕組みもあるでしょう…とは言いたい。
todo
メモ
x.
- あらかた寝言を書いたら、このメモもよそに転記して、ここはクリアな状態ではじめる。
- 今の社会状況を無理矢理ボドゲの人に当てはめて考えると、ボドゲの人は<楽しみを求めること>の強度を試されているような気はします。
- あと、おれの中では地震に際して「デマか」「情報は自分で見極めて」とかやってるのと「**のレビューは最近質下がったな」「これがSDJ候補かぁ」というのは自分で何も編集してないという意味では同じ箱。何のためのインターネットなん、っていう(とかいうほど使いこなしているわけでもありませんが)
- 単なる「新作会」「集まっておもしろゲームを遊ぶ会」なら、伝え残す意味なんかないから、書かない。ゲームが面白いのではなくやってる人間のほうが面白い。
z.
文字おこしのために録音を聴き直してみて思ったが、ボードゲームしている時間を音声で聞くとものすごく無言の時間が多く間延びしている。私たちはずいぶん贅沢に時間を使っているのだと思う。
世の中が大変なのを尻目に高等遊民きどりが何を遊んでくさる。そんな時間があったら外にすることがあるだろ。そう言われれば「すいません」とうなだれるほかない。
私は「こんな大変なときだからこそ、楽しいボードゲームを広めましょう」とは思っていない。結果的にそんなことも起きればいいなとは思うが。ミュージシャンやお笑い芸人の人に期待されているような(「こんなときだからこそ」という熨斗をつけられて彼らは本当に大変だと思う)動機では行動しない。
「こんなときだから」は、掲げ続けるかぎり常に正しいもので、常に正しいものには触らないというのが私のモットーだ。「こんなときだから」は、むしろすべてのプライオリティを破壊し、人から沈思黙考する時間を奪うものだと考えている。全てに即レスと情報の真偽の迅速な判断が要求され、間違えば叩かれる。「こんなときだからこそ、電気を使わないボードゲームに価値がある」そりゃたまたまそうだっただけで、それで胸張る度胸は私にはない。
自分の行動が世界の中で本当にどんな意味があるかは、「こんなときだから」を離れて、時間をかけて探っていくほかない。気になったことを記録して、そこから生まれた疑問や発想の芽を大事に育てなければ、「こんなときだから」というでかい声に動員されるばかりだ。
適切に自分を編集して、意味を探していけるような記述の形式を、私たちひとりひとりが見つけていると、言えるのだろうか? 上で「同じ箱」と書いているのはそういう意味だ。